2020.3.22
「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」



ヨハネによる福音書19章16b~27節


〈レント4〉


音声データ
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「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』と書いてあった」(19節)


 ヨハネは今、信仰の眼によって、出来事の真相を見ています。私たち自身がもし、今、この十字架の現場に居合わせていたとしたら、どうでしょうか。私たちの目に映るのは、見るも哀れで弱々しい、疲れ切った一人の男が、重い木を背負わされて歩く姿にすぎないでしょう。それは呪いの木にかけられた、これ以上ないほど悲惨な死にほかなりません。しかしヨハネは、その表面的な姿の奥にあるものを信仰の眼で捉えているのです。そこに見えたのは、最も低い所で最も惨めな最期を遂げることをお引き受けになった、最も気高く、最も強く、最も輝かしい王の姿でした。ヨハネは幻覚でも見ているかのようにして、強い王・栄光の王・勝利の王を描いているのではありません。むしろヨハネにとっては、十字架に上げられることこそが栄光を受けることであり、勝利なのです。

 主イエスは今日の御言において、自分からゴルゴタヘと向かって進んで行く堂々とした王として描かれています。しかしそれはヨハネが目の前で現実に起こっている主の苦しみや痛みに眼を閉ざし、それを無視したり、あるいは美化したりして書いているということではありません。そうではなくヨハネはそこに起こっているすべてをしっかりと見、受け止めた上で、それらを信仰の眼で捉え直しているのです。

 主イエス・キリストは確かに「王」です。しかしヨハネ福音書が証しするのは十字架につけられるという無力さの中でこそ「王」である主イエスなのです。暴力や権力といった〈世の力〉を振るう人間たちにもてあそばれ、運命に流されているようでありながら実は自分から苦しみを引き受け、最後には自分自身の命さえも与えていく、そのようなまことの「王」なる主イエスを描き出している。この「王」は、世界を〈愛〉によって支配なさるまことの「王」なのです!







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