2020.3.1
「〈わたし〉である」



ヨハネによる福音書18章1~11節


〈レント1〉


音声データ
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「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、『だれを捜しているのか』と言われた。彼らが『ナザレのイエスだ』と答えると、イエスは『わたしである』と言われた」(4~5節)


 「だれを捜しているのか」という主の問いかけに対して人々は「ナザレのイエスだ」と答えました。彼らの答えに対して、主イエスは「わたしである」とお答えになりました。これは表面的に見れば“あなたがたが捜しているナザレのイエスは私である”という意味の答えです。なんということはないただのやり取りに見えますが、実はとても深い意味が込められているのです。人々が捜していたのは一人の人間「ナザレのイエス」です。その「ナザレのイエス」を亡き者にしてしまえば事は済むのです。しかし、彼らが捕らえようとしているこの「ナザレのイエス」は、同時にそれ以上の存在であるという事実がここに示されています。実はこの「わたしである」という言葉は、旧約聖書の出エジプト記3章で、神様が燃える柴の中からモーセに現れて、ご自分の名前を「わたしはある。わたしはあるという者だ」(3・14)と宣言なさったのと、まったく同じ言葉なのです。すなわち父なる神と御子イエス・キリストは一つであり、御子はまことの神なのです。

 「わたしである」「わたしはある」というのは、とても不思議な名前ですが、“私は私があろうとする者である。私は私がなろうとする者になる”という意味の名前です。神様が何であるか、何になるかは、神ご自身がお決めになることであり、他の何ものにも囚われないという神様の完全な自由と主権、栄光が言い表されている名前です。“かつて在り、今も在り、とこしえに在る存在、それが私である”という宣言を、この名前を通して聴くのです。このヨハネ福音書8章において主イエスは同じ名前を用いて次のように語っておられます。「……『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(23~24節)。







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