2018.11.11
「安息日はだれのため?」



ルカによる福音書6章1~11節


【音声データ】
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「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」(9節)


 たとえ安息日であろうとも、“神の掟を守らなければならない”という理由で、人が困難・苦しみの中にあるのを放置すること、助けを怠ることを、主は「悪を行うこと」だと言われます。この人の切なる願いを愛なく見逃すことは、この人の命を殺すこと=「悪を行うこと」であり、愛において受け止め癒すことは、この一人の人間を真実に生かすこと=「善を行うこと」であったのです。

 確かに律法学者たちが考えるように“癒したければ何も安息日でなくても、それを1日延ばせば律法を破らないで済むし、手の麻痺は1日待ったからといって急に悪くなる病気でもない”という理屈も成り立ちます。でもそのような延期は、主イエスにとっては“神の掟”の名を借りた怠慢であり、「命を……滅ぼすこと」に等しいのです。たとえ積極的に病人を苦しめたり、害を与えたりするのでなくても、他者に対する愛がないこと、無関心でいることは、「悪を行うこと」と同じだと主は言われます。

 主は“安息日にしてはならないこと”を問題にするのではなく、“安息日に神様が求めておられること”を、何よりも大切になさいます。「……善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」、主イエスは私たちにも迫られます。何もしないで無関心でいることをお許しになりません。主はたとえ安息日であっても神の前に失われた者を捜し出し、病む者を癒されます。いや安息日だからこそ、神の救いの業を行われるのです。主イエスは〈律法の完成者〉です。〈神への愛〉と〈隣人への愛〉が、主の中で一つに結び合わされている。このお方を信じ、従っていく時に私たちの本当の・本来の、人としてあるべき歩みが始まるのです。







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