「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)
ザアカイは、この申し出をすることによって罪の赦しを得ようとしているのではありません。これは、とても大事な点です。今までしてきた悪い行いを、これから善い行いをすることによって帳消しにしてもらおうとしているのではない。そうではなく、神様の赦しと救いが先にあるのです。“こんな、どうしようもない罪人である私を、神様が愛し、受け入れてくださっている!”。彼の申し出は、主イエスによってもたらされた救いの喜びから、自発的に・自然に生まれてきた行為なのです。
ザアカイは喜びました。主イエスのもとに、そして神様のもとに自分のいていい場所があることを知ったからです。多くの人に憎まれていた自分が神によって愛されていることを知ったからです。だから彼は自分も神様を愛し、神に従って生きようと決心しました。主イエスが来てくださったことによって、ザアカイの新しい人生が始まったのです。
さらに、もう一つ大事な点は、ザアカイが主イエスに出会って「徴税人」を辞めたわけではなく、「徴税人」のままで、救われた者として、その喜びを自分の生活の中で積極的にあらわそうとしたことです。主がザアカイの家にお泊まりになったことに眉をひそめた人々なら、まず「徴税人」という〈汚れた職業〉を捨てることを求めたでしょう。しかし、主イエスのなさり方は違います。彼がそのままの姿で新しく生き始めるのを喜んで後押しされるのです。
私たちも同じです。そのままの姿で神様に愛され、赦されています。飾ることのない、ありのままの自分で、新しく生き始めることができるのです!
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