2018.10.21
「惜しまずにいられない」



ヨナ書4章1~11節


【音声データ】
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「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」(11節)


 この答えは“とうごま1本でさえ惜しいのだから、ましてたくさんの人間と家畜はもっと惜しい”というような、数字上の比較をしているのではありません。とうごまは、ヨナが「労することも育てることもなく」、ヨナの愛の対象としての関わりを持つものではありませんでした。一夜で生じ、虫に食われて枯れる、そういう種類の自然現象にすぎません。別にヨナと人格的な関係を持つものでもありません。

 しかしニネベの人々はそれとは違います。神様が労して育てられた彼らの生死は、単に自然現象のように仕方がないで済むことではありません。もちろん神様の愛の眼差しは動植物に、世界のすべてに注がれていますが、しかしニネベの人々は、とうごまとは違う愛の対象であり、神との人格的な関係に置かれているのです。ニネベの人々は神の選びの民ではありませんが、やはり神様が創造し・支配しておられる神の愛の対象であり、人格として扱われるべき相手なのです。

 ヨナが激しく問うている神の真実は、矛盾のように見える神様の行為の中に、首尾一貫しているのです。神様はニネベの人々を、責任を負うことのできる人格として扱い、だから悪の責任を問うて罰することを宣告されました。そして、だからこそ心からの悔い改めが行われれば、それを赦すことが今度は人格的な取り扱いとなるのです。そこが、とうごまと違う点なのです。神様の行動は、実は神の人格的な愛において筋が通っているのです。イスラエルはこの根元に立ち帰って、選びの民の意義を新しく見直していかねばなりません。それが神様の答えです。この神様のはかりしれない愛と憐れみはニネベの人々にも、そしてこの私たちにも注がれているのです!







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