2018.10.14
「新しいぶどう酒は新しい革袋に」



ルカによる福音書5章33~39節


【音声データ】
※クリックすると音が出ます



    

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」(38節)


 ユダヤ人にとって、特にファリサイ派の人々にとって「断食」というのは、〈祈り〉や〈施し〉と並んで功徳のある善行の一つに数えられていました。彼らは、律法に従う生き方をしない人・あるいはすることができない民衆から自分たちを分離して、〈清い〉生活をし、その善い行いをせっせと積み上げることによって神様の救い=罪の赦しを得ようとしたのです。また洗礼者ヨハネとその弟子たちも、世の終わりの時が近いことを意識して荒れ野に住み、終わりの時の審きに備えて「悔い改め」のしるしとしての「断食」を行っていました。“メシア=救い主が来られる時にこの世も終わりを迎え、律法に従った生き方をしていない者は、審きの座に立たされることになる”。そう考えたヨハネの弟子たちにとっても、律法に従った生き方をしていない人と交わりなどしていては〈神の国〉に入れない事態を招くことになり、それはとうてい考えられないことであったわけです。

 ファリサイ派の人々とヨハネの弟子たちはいずれも、断食をすることによって、神様の前に〈悔い改め〉を表そうとしています。彼らはそうやって自らの善い行いを積み上げて罪の赦し=救いを得ようとし、〈神の国〉に入ろうとしている。彼らにとっては、〈神の国〉に入ることができるのは、律法を守っている人なのです。

 しかし主イエスは、〈神の国〉に入ることについての人間の側の条件を一切つけておられません。主の招きに応える人は誰でも、〈神の国〉に入れるのです。ここには既に罪の赦し、すなわち救いが来ている。既に救いが始まっている。新しい事態が生じている。それは今、神ご自身がこの世に来ておられるという出来事であり、花婿が来ている、婚礼の喜びの時なのです。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」。“救いの時が既に始まっているのだから、ファリサイ派の人々やヨハネの弟子たちが守っているような形だけの断食は、もはや必要ないではないか”と主は言われるのです。







トップページへ