2018.9.30
「主は与え、主は奪う」



ヨブ記1章1~21節


【音声データ】
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「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」(21節)


 ここで言われる「そこ」というのは、すべてのものの創り主である神様のところと考えられます。ヨブは“今、自分が持っているものは、元はといえばすべて神様から与えられたものだ。だから、それを受けるにしても失うにしても、すべては神様の御手の内にある。神様こそが私の財産だ”と考えて、この苦難と悲しみを乗り越えたと言えるのではないでしょうか。このヨブの言葉は、〈諦め〉ではなく〈信仰〉の言葉です。苦難の時もヨブは神様に向かいました。神様を非難したり、呪ったり、人生に失望したりすることはありませんでした。

 私たちにもヨブと同じような、“自分は何も悪いことはしていないつもりなのに、なぜこんなひどい目に……”と、いくら考えても分からない不幸や悲しみが襲って来ることがあります。また世界を見渡しても、“善人が苦しみ、悪人が栄える”ような現実があります。

 実は、聖書というのは非常に重層的な書物で、聖書の中において相反すること、矛盾に思えることが書かれていたりします。例えば、申命記には、繰り返し〈祝福〉と〈呪い〉についての記述が出てきます。神に従う義人であるなら〈祝福〉を受け幸福になり、罪人なら〈呪い〉を受け不幸な目に遭うというのです。これは、ある意味、私たちにも分かりやすい理屈かもしれません。しかし、そうではない現実があるのです。倫理的にも道徳的にも、そして信仰的にも完全で、非の打ち所のない生活をしていた義人ヨブが、理由の分からない災難に襲われるということがあるのです。

 つまり、このヨブ記というのは“かつて、ヨブという立派な信仰者がいた”などということを伝えているのではありません。聖書の一つの大きな柱である“神に従う者は祝福を受け、神に逆らう者は呪われる”という典型的な〈因果応報〉に真っ向から勝負し、立ち向かい、“〈因果応報〉とは違う現実があるけれども、それでも我々は、神を信じることをやめない”と宣言する、もう一つの大きな柱なのです。







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