2018.9.16
「思い直される神」



ヨナ書3章1~10節


【音声データ】
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「悪の道を離れ……不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない」(8~9節)


 この「かもしれない」というひと言は、とても重要な意味を持っています。これは、〈神の自由〉を表す発言です。確かに神様は人間の〈悔い改め〉をお求めになりますが、しかし、それは神の意志決定が人間の側の態度によって左右されることを意味していません。神様に対してどんなに〈悔い改め〉と〈悲しみ〉の態度を表しても、それによって神の意志の変更が期待されるのではないし、また期待すべきでもないということです。すなわち人間の側の態度や都合によって神様を変えること・コントロールすることはできないということです。

 ここ最近、〈忖度(そんたく)〉という言葉を使う機会が増えました。こんな難しい言葉、これまではあまり使われていませんでしたが、特に政治や役人の世界で〈忖度〉が働いたなどというふうに報道されることが増え、何かと使う機会が増えています。〈忖度〉という言葉は『広辞苑』では「他人の心中をおしはかること。推察」と定義されています。このように本来は良い意味の言葉で、“〈心遣い〉をすることの何が悪いのか”という声も出そうですが、しかし、この〈忖度〉という言葉には、もう少し違うニュアンスが込められているのではないでしょうか。ただ相手のことを本当に思いやって〈心遣い〉をするだけならば素晴らしいことだと思うのですが、してあげるほうが、口には出さずとも〈見返り〉を求めているところに、問題が潜んでいるのです。

 今日の大きなテーマである神様の〈赦し〉〈思い直し〉についても同じことが言えます。私たちがどれだけ深く〈悔い改め〉と〈悲しみ〉の態度を表そうとも、それによって神様の〈滅ぼす〉〈滅ぼさない〉という決定を変えることはできません。ひたすら〈御心のまま〉にということなのです。罪の〈赦し〉、滅びの〈思い直し〉は、どこまでも神様の自由な・独立のご意志による事柄なのです。







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