2018.7.29
「主から逃れようとしたヨナ」



ヨナ書1章1~16節


【音声データ】
※クリックすると音が出ます



    

「わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている」(12節)


 ヨナのセリフはどれも絶対的な確信に満ちています。12節もそうですし、4章では神様に向かってさえ「わたしには、こうなることが分かっていました」(4・2)と言っています。神様の行動もヨナには全て予知可能だというわけなのです。逆に言えば、ヨナにとっての神はヨナがこうあるべきだと考える通りの神でなければならないということです。だから、あの審かれるべきニネベに行って宣教するなどという命令は、そもそも神の命令にふさわしくない。まして神がニネベを赦すなどということは到底、受け入れがたい。ヨナの心は神の自由に対して開かれていないのです。

 それと対照的なのが、船長の言葉です。彼は言います。「神が……助けてくれるかもしれない」(6節)。船長は信仰が弱いゆえに、こういう言い方をしているのでしょうか。そうではありません。ここに神の自由な憐れみにのみ委ねる、まことの信仰が示されているのです。神様に祈るのは、神が祈りを聴いてくださるからです。しかし、私たちの祈りが神を縛ること、コントロールすることはできません。神の憐れみも救いも、どこまでも神の自由に帰することなのです。出エジプト記33章で、神様はモーセに「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」(33・19)と語っておられます。これは決して神の独断や横暴、わがままを言っているのではありません。まさに神の全き自由を宣言しているのです。今日の1章の最後では、異教徒たちが救われています。信じられないことと言うべきでしょうか。いや、そうではありません。神様がお望みならば嵐の中の船の上であろうと、罪に満ちた大いなる都においてであろうと、人々は悔い改めて神に立ち返り、神は憐れみをもって赦してくださるのです。神様の憐れみの前には、誰が救いから遠く、誰が近いという差別はありません。ここにこそ、教会の宣教の根拠があり、希望があるのです。







トップページへ