2018.5.27
「主イエスの母マリア―剣で心を刺し貫かれた人―」



ルカによる福音書1章26~38節


〈嶋田順好氏(宮城学院 学院長)による説教〉


【音声データ】
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「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」(ヨハネ19・26)


 プロテスタント教会ではカトリック教会のように主イエスの母マリアを崇敬の対象とは認めていません。アドヴェントとクリスマスのマリアに注目はしても、それ以後のマリアにはほとんど関心を払わないのです。しかしよくよく考えてみれば救い主を身ごもったマリアは、そのことの故にこの世の母という母が経験する苦しみ、悲しみ、痛みの一切を引き受けるような定めを引き受けざるを得なくなったのではないでしょうか。

 マリアにとっての試練と祝福は、ひとえに「我が子」を「我が主」と呼ぶ者へと変えられていくプロセスにあったと言ってよいでしょう。そのためにはどうしても我が子が十字架で命を絶たれる場面に自らを立ち会わせなければならなかったのです。

 その関連で主イエスの地上における最後の業がなんであったのかということを心にとめることも大切です。それは母マリアを自分の弟や妹に託すのではなく、十字架の苦しみの極みのなかにありながらも、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と語り掛けつつ愛する弟子に引き合わせ、母を教会の交わりに招き入れることでした。そうです、主イエスの地上における最後の業は、母マリアを肉親の交わりから教会の交わりへ招き入れること、家族伝道だったのです。そのことを私たちは深みにおいて理解していたでしょうか。

 家族伝道、信仰の継承ということの難しさが嘆かれます。しかし、私たちは嘆くことにおいてその課題の重大性を曖昧にし、具体的な祈りの課題としなくなってしまうことはないでしょうか。主イエスと母マリアの歩み、その関わりを見つめることにおいて、私たち自身も、地上の生の最後まで家族伝道の使命をしっかりと担う信仰をさやかに与えられたいと願います。







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