2018.3.11
「裏切ったペトロ」



ルカによる福音書22章54~71節

〈レント4〉

【音声データ】
※クリックすると音が出ます



    

「ペトロは……『わたしはあの人を知らない』と言った」(57節)


 あれほど愛し尊敬し、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と誓ったはずの主イエス、その「仲間」であり、共に生きる者であることをペトロは否定してしまったのです。彼にとって、主と共にいることは大きな喜びであり慰めであったはずです。それなのに、いざとなると主を知らないと言ってしまう。

 しかし、これはペトロだけの問題ではありません。私たちは、どうでしょうか。日常の生活で、教会と関係のない所にいる時に“あなたはイエスの「仲間」なのか”“あなたは、こんなに科学や技術の発達した現代において、本当にキリストを信じているのか”、人からこう聞かれた時、どのように答えるでしょうか。自分の態度をはっきりさせなければならない出来事に出くわした時、どのように表しているでしょうか。私たちもペトロと同じなのではないかと思うのです。教会では主イエス・キリストの恵みを溢れるばかりに頂いておりながら、教会を一歩出た途端に、自分が主と共にある者であることを、まるで隠すかのように振る舞ってしまう。そこでこそ、主を証しすることが求められているのに、それができないのです。主の「仲間」である幸いを、主と共にいる喜びを、表すことができないのです。

 ペトロは、3度も繰り返して主イエスを否みます。それは、ペトロがたまたま一度だけ裏切ったというのではなく、彼の中にしぶとく残っている罪の姿を示しています。しかしこの話が書かれたのは、ペトロを断罪し責めるためではありません。このようなペトロをさえも主イエスはどこまでも愛し抜かれ、やがて最初の教会の指導者として彼を用いていかれるのです。ペトロだけではありません。私たちの中にある罪も、まったく同じです。しょっちゅう、まことの神ならぬ偶像に依り頼み、主を「知らない」と言って否んでしまうような私たちです。しかし、このような私たちをも主はどこまでも愛してくださり、一人一人を用いて、救いのご計画を進めて行かれるのです。







トップページへ