2018.2.18
「神の国の食事」



ルカによる福音書22章14~30節

<レント1>

【音声データ】
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「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」(19節)


 「あなたがたと……過越の食事をしたい」(15節)という主の本当の願いは、「過越の食事」(パンと杯)を超えてご自身を与えることにまで貫かれています。19節は「与えられる」と受け身・受動態の形になっています。では誰によって与えられるのか。神様かあるいは主イエス・キリストによって与えられるということでしょう。つまり主イエスが与え手であって、使徒たちは受け手であるということがここに示されているのです。この食卓には主イエスから弟子たちへという一つの方向性が生じています。「あなたがたのために与えられる」という言葉は、ひたすら〈神から人へ〉という、逆方向など描きようもないほどの決定的な一方向の恵みの流れが描かれているのです。

 そうだとすると、この恵みの授与は単なる救いの知識の伝達にはとどまらないはずです。ルカ福音書24章には、主イエスの十字架の死の後、エマオという村に向かう2人の弟子たちが復活の主に出会った話が記されています。あの話は、主イエスが悲嘆に暮れている弟子たちに向かって、聖書全体にわたって御自分について書かれていることを説明されて(24・25~26)終わりなのではありません。一緒に食事の席に着き、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった途端、二人の目が開けて、主だと分かったけれど、その姿は見えなくなったという出来事で終わっています。

 あの話が、単なる復活の話では終わらず、パンを裂かれる主のお姿に臨在そのものを見出すことを得ないと終わらないように、聖餐式の度に語られる「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」という「記念」という言葉は、単に頭の中で主を思い起こし記念することを超えて、現実に主の臨在と結び付くのです。主イエスの情熱あふれる言葉はパンと杯による〈出来事〉となり、復活の主の体となって、使徒たちに、さらにこの私たちにも「与えられる」のです。







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