2018.2.11
「天の故郷を熱望して」



ヘブライ人への手紙11章1~16節


【音声データ】
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「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(1節)


 「望んでいる事柄を確信し」と訳されている、この「確信」という言葉は、“私が確信していること”という主観的な信念と誤解されそうな訳よりも、元の言葉では〈本質〉という意味の言葉が使われていて、そう読むほうが説教者の意図に即していると思います。すなわち“信仰とは望まれている事柄の本質であり、見えない事実の証拠が出されること”なのです。迫害下のローマの教会に集まっていた人たちは疲れて、心がクタクタになっていました。しかしその会衆に対して著者は言うのです。“まことの信仰というのは、あなたたちの信念がどれだけ堅いかということではなく、あなたたちの希望とするところのものの、本質が大事なのだ。その本質的な存在があなたたちを救うのだ”。それこそが主イエス・キリストの十字架と復活によって実現した、永遠の命の希望です。

 これは、私たちの信仰にとっても、とても大事な事柄です。私たちは自分たちの実感の度合いによって、信仰をはかろうとします。でも、それはいつしか非常に主観的になってしまい、常に揺らぐものになってしまう。しかし、私たちが本当に立つべき信仰とは、私たちが実感できることや確信できることではありません。例えば人が自分の力で自分を罪と死から救おうとすることを“それは、空から落下している最中の人間が、自分の手で自分の体を引っ張り上げようとするものだ”ということが言われます。その姿を思い浮かべると滑稽なほどですが、実は、自分の手で信仰を捉えて自らを救おうとするのは、それぐらい愚かで無意味なことなのです。

 救いは私たちの内側にあるのではなく、外側から・上から・神様から来るのです。本当の信仰とは、その神様に信頼して、心も体も神に向かって開かれることです。人間の側の可能性が尽きるところにこそ〈望まれている事柄の本質〉が現れるのです。  







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