2018.1.14
「主イエスはモーセにまさる」



ヘブライ人への手紙3章1~6節


【音声データ】
※クリックすると音が出ます


    

「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです」(6節)


 この手紙の当時の教会も、そして私たちの黒松教会も、主イエスがお建てになった、「神の家」なる教会なのですが、それはあくまで条件付きのことであって、自明なこととは言えません。教会とは、自然発生的に、また、ただ人間の努力によって生まれる群れではありません。地上の教会は、いつでも教会ならざるものに変わってしまう可能性を孕んでいるのです。その方向に向かおうとする力と、絶えず闘っていく姿勢が求められています。

 私たちがまことの「神の家」であるための条件が、ここに語られています。すなわち、「もし確信と希望に満ちた誇りとを(しっかりと)持ち続けるならば」という条件です。これはキリストが再び世に来られる日に与えられる救いの完成を望むところから来る誇りです。つまり私たち自身の力による誇りではなく、神様の救いのご計画と、その約束への信頼から生じる誇りなのです。信仰というものは、瞬間的な決断にとどまるのではなく、持続的なものでもあるのです。

 この手紙の著者がこれほど力を込めて「確信」とか「希望に満ちた誇り」について述べているということは、宛先の諸教会のキリスト者たちが、信仰が冷え、外部からの迫害が迫る中で、これらのものを失いかけてたということをうかがわせます。でも、これはいつの時代の教会にも、私たちの教会にも言えることです。この6節の言葉は、教会が教会であるための、形だけではなく、本質的な内容を含めての必須条件であるということなのです。つまり、キリストに対する望みの確信と誇りがしっかりと持ち続けられないなら、そのような告白がないなら、あるいは、かつてはそのような告白を持っていたとしても今はないならば、どんなに人が集まっていようが、建物があろうが、それは教会ではありません。







トップページへ