2018.1.7
「流れのほとりの木」



詩編1編1〜6節


★ 新年礼拝 ★


【音声データ】
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「いかに幸いなことか……主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」(1〜2節)


 この詩人が力強く歌い上げているように、神様の掟を守って生きることは何か堅苦しい掟によってがんじがらめに縛られる嫌なことなのではなくて、むしろ、そこから喜びが湧いてくる、いわば〈喜びの源泉〉なのです。

 ところで、新約聖書を読むとき、「主の教え」=律法に対して、あまり良い印象を持っていない方も多くおられるのではないかと思います。それは主イエスが、律法を形ばかり守り、また他の人を律法で縛り付けるファリサイ派の人々や律法学者たちと対決なさったからであり、パウロもまた、律法ではなく福音を伝えたからです。

 しかし主イエスがこの人たちと厳しく対決されたのは、形ばかり掟を守るけれど中身がなかったから――空っぽの籾殻のように――であって、本当の意味で神様の掟を守ることはとても幸せなことであり、「良い実」を結ぶことができるのです。ですから主はマタイ福音書5章の〈山上の説教〉の中で、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(5・17)と言っておられます。またパウロも、ガラテヤ5章で「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(5・22〜23)と言っています。

 このように、「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない…」といった律法=神の掟を、本当に心の奥底まで実行できるならば、それは神様を愛しお互いに愛し合って命に至ることができる素晴らしいものなのです。十戒(じっかい)を中心とする神様の掟はすべて、私たちを縛り付けて苦しめるためのものではなく、むしろそれらを実行することによって神を愛し、互いに愛し合い、まことの命へと至る、いわば〈命への道しるべ〉なのです。







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