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2010年11月28日
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2010年12月26日


2010.11.28
「救いへの道備え」


ルカによる福音書 1章5-25節


(1)「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」(13節)

 祭司ザカリアはイスラエルの代表者として、民全体の救いのために神に祈っていたのではないでしょうか。そして、“主よ、我らを憐れみたまえ。救いたまえ”というこの祈りは彼だけの祈りではなかった。「香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた」(10節)のです。聖所の中に一緒に入ることはできないけれども、ザカリア一人の願いにとどまらず、彼を支える共同体全体の祈りがあった。民全体の祈り・願いに応えて、その実現・成就として、神様はヨハネの誕生という〈喜びの知らせ〉=福音を告げてくださるのです。

 私たちもこの教会に集い、心を一つにして、ただ自分だけの救いにとどまるのではなく、世界全体が救われることを祈り求めていきたいと思うのです。神様は、その祈りに必ずや応えてくださるでしょう。

(2)「彼は……準備のできた民を主のために用意する」(17節)

 〈悔い改め〉、これこそが、私たちが救い主を迎える上で最も大事な準備です。聖書が語る〈悔い改め〉とは、ただ単に私たちがこれまでに犯してきた罪を振り返って、くよくよと悔いることではありません。むしろ、そうやって〈後ろ〉を振り返るのではなく、〈〉を向いて、神様を目指して新しく生き始めることです。それには、私たちの古い自我が打ち砕かれることが必要です。実は私たちは、愚かで弱い自分に絶望しながらも、どこかで、こんな自分にまだ頼っているのです。心の隅では、まだ自分に望みをかけている。

 〈悔い改め〉とは、この古い自我が徹底的に打ち砕かれることだと思うのです。もっと言うならば、〈悔い改め〉とは今までの自分に死ぬこと、完全に見切りをつけることです。そして、愚直なまでに神様に依り頼んでいく。委ね切って生きる。その時はじめて、神の真の命と力を私たちは見いだすのです。






2010.12.5
「主があなたと共におられる」


ルカによる福音書 1章26-38節


(1)「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28節)

 この喜びの知らせ=福音は、マリアが何か特別な人であり、優れた人であったから彼女に告げられたのではありません。むしろ彼女は、弱く小さい者の代表です。彼女が住んでいたナザレの町のあるガリラヤ地方自体が、「異邦人のガリラヤ」(イザヤ書8・23)と呼ばれて蔑まれていたような所で、しかも男尊女卑の非常に強い当時の社会にあって、彼女はまさに取るに足りない存在とされています。

 けれども、神様の眼には、そんなことは全然問題ではありません。むしろ、ただ恵みによって、ありのままのマリアを、取るに足りないとされていた一人の女性を選び、彼女と共におられる。

 だからこそ恵みなのです。何か秀でたところがなければ神様の祝福が受けられないのならば、それは本当の祝福・恵みとは言えません。むしろ本当の恵みとは、今のありのままの私たちを神様が受け入れてくださるということなのです。マリアに告げられたこの祝福の言葉は、私たち一人一人にも告げられています。

(2)「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む……」(30-31節)

 私たちがこの神様の御言を信じて生きる時に、驚くべき事が起こります。マリアの中に聖霊によって神の子が誕生したように、私たちの中にも神の子が誕生するのです。この御言を心から信じて生き始める時、私たち一人一人の内に復活の主イエス・キリストが来てくださり共に生きてくださる。そのことが、現実に起こってくるのです。主はマリアの中にだけ、誕生したのではありません。主の十字架と復活による救いを信じて主にすべてを委ねて生きる一人一人の内に、主イエス・キリストが誕生し、共に生きてくださいます。主と共に生きる命、それは、この世の何者も奪い取ることのできない、この世のいかなる条件にも左右されない、真の命・〈永遠の命〉です。






2010.12.12
「大いなる逆転」


ルカによる福音書1章39-56節


(1)「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」(42-43節)

 救い主の誕生が今、様々な違いを超えてこの二人の女性を結び合わせています。そして、救い主の誕生を中心にして、真の祝福と喜びが湧き上がっています。これこそが、主の日ごとに献げる私たちの礼拝の姿ではないでしょうか。この世において全く違う者たち――年齢や性別、生まれも育ちも異なる者たち――が、あらゆる条件を超えて、ただ救い主を崇めるために、この礼拝に呼び集められるのです。

(2)「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(47節)

 ここで「あがめ」と訳されている言葉は、“大きくする”という意味の言葉です。“私は、主を大きくします”、こうマリアは歌うのです。この一言の中に、彼女の信仰と生き方が凝縮されているのではないでしょうか。マリアの生き方の中心は、「主」を大きくし、「わたし」を小さくするところにあります。そして、そのようにして自分をどこまでも小さくし、神様をどこまでも大きくするその彼女の内にこそ、真の喜びが溢れてくるのです。

 では、私たちの中では、神様が最も大きくなっているでしょうか。“自分の中で、今、何がいちばん大きくなっているか”、このことを、胸に手を当てて問うてみたいと思うのです。もし〈自分〉がいちばん大きいならば、私たちは傲慢になります。〈他人〉がいちばん大きいなら、劣等感や妬みに支配されるでしょう。〈〉が大きいなら、欲望の虜になってしまう。主以外のものを大きくする時、私たちは罪に支配され、真の幸いと喜びを得ることができません。私たちの罪はまさにこの“自分を大きくしようとする”ところにあるのです。





2010.12.19
「飼い葉おけの中の救い主」


ルカによる福音書2章1-7節


「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(6-7節)

 ここには、びっくりするようなことが書かれています。世界中の人の救い主なら、王様が住むような立派な宮殿で生まれてもよさそうなものです。けれども主イエスはそれとは反対に、馬や牛などの家畜が休む馬小屋の中で生まれ、馬や牛などが食べる干し草などのえさを入れる「飼い葉桶」の中に寝かせられたというのです。

 “神の子がこの世に来られた”と聞くと、私たちは何かきらびやかなことばかり想像してしまいます。“神様が私たちを救ってくださる”と聞くと、私たちは自分が神様と一緒に高い所に引き上げてもらえることばかりを期待してしまうのではないでしょうか。私たちの中にはいつも“他人よりも上になりたい”という思いがある。しかし神様というのは実は、逆にどこまでも低く降ってくださる、そのようなお方なのです。馬小屋にお生まれになった主イエスの誕生と、その生涯こそが、それを豊かに物語っています。

 本当は誰よりも偉いお方であり、誰よりも力を持っておられるはずの神の子が、誰よりも低く貧しくなって生まれてくださった。それは、すべての人と一緒に生きるためでした。自分自身が苦しいことや辛いことをいっぱい経験している人は、他の人の苦しさや辛さがよくわかります。主イエスは、私たち一人一人の苦しみ、悲しみ、そして喜びを本当に知るために、貧しく低くなって生まれてくださったのです。そして生涯、苦しむ人の友達となって生きてくださった。貧しい人や病気の人、他人から“あいつは、罪人だ。汚れている”と言って仲間外れにされているような人、そのような人の友となって一緒に生きてくださったのです。そしてついに生涯の最後には、私たちの罪をすべて代わりに自分の身に負って、十字架にかかって死んでくださった。このお方こそが、すべての人の救い主であり、真の王なのです。




2010.12.26
「まだ悟らないのか」


マルコによる福音書8章1-21節


(1)「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか」「七つです」(20節)

 主イエスは「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない」と言って彼らを憐れみ、パンを裂かれました。それは、この出来事が〈〉によってなされたことを示しています。本当の〈〉とは、与えることであり、しかも自分を与えることです。

 そして神の真実な〈〉は、神の御子である主イエス・キリストがご自身の肉を裂いて人々にお与えになったあの十字架の出来事によって何よりもよく顕されています。まさにその神の愛が分け与えられる出来事が、この5つのパンを裂いて5000人を養う奇跡において、また7つのパンを裂いて4000人を養う奇跡において、すでに始められているのです。あと必要なのはただ一つ、それを見ることのできる、謙遜で柔軟な〈信仰の眼〉なのです。

(2)「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」(17-18節)

 「しるし」を求めるということは、私たちが〈自分〉という名の物差しをそれぞれの内に持ち、その片寄った物差しで生ける神・無限の神を測り、自らの思いの中に閉じ込めようとすることです。

 だからこそ、主はこんなにも厳しい叱責の言葉を投げかけられるのです。でも、これはただ厳しいだけの言葉ではありません。悔い改めへの招きの言葉であり、神の命への招きの言葉でもあるのです。

 神様を見出す方法は、神の恵みに〈心の眼〉が開かれること以外にはありません。自分にしがみつき続けてきた、その頑なさが御霊によって打ち砕かれて、ひたすらに恵みを受けることのできる柔らかな心にされることがなければ、本当に神を知ることはできないのです。



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